2012年8月23日木曜日

文学史について


文学史について

アイヒェンドルフの詩を訳していて思うことは、やはり、この詩人を文学史で呼ぶようにロマン主義という文芸思潮に入れて、ひとくくりにしてしまうことはできないし、そのように考えてはいけないということです。

それほど、アイヒェンドルフは現代的、contemporaryな感じが強くする、今もその詩の言葉が脈々と、古びる事なく生きています。

大学の修士課程の口頭試問のときに、先生達に向かって、文学史についてのわたしの考えを述べたことを今思い出す。わたしは文学史というものが嫌いであった。

時間の中で理解するだけでは、その芸術家を、またその人間を理解したことにはならないのだということを思い出す。この意見を開陳したことを思い出す。

アイヒェンドルフの詩を読んで、この芸術家のこころは、人間のこころのある階層に位置していて、そのこころ、あるいはその意識を代表しているのだと、やはり思わずにはいられない。

それが歴史という時間の中で呼ばれる各様式(style)の意義と意味である。そのスタイルは変わらない。どの時代に現れても。

人間は時間の中に生まれて来るが、その求めたこと、逆に作品の由来するところは、時間を超えている。それは、必ず構造を備えているのだ。

口頭試問で、わたしが口にしたもう一つのことは、初めて英語を教わった時に思ったことで、I am a boyは、わたしは少年である、ではないという考えであった。ここに潜んでいる問いは、

1。翻訳とは何か
2。言語とは何か(一般):言語は関数、function、機能であるという当たり前の事実)
3。個別の言語とは何か(個別)
4。意味とは何か(意義と意味、senseとmeaning、intensiveとextensive、内包と外延)
5。価値とは何か(価値の体系)

という問いである。

そうして、この考えは今も変わらず、また以上これらの考えは今も変わらず、その通りである。

アイヒェンドルフの詩を読み、解釈し、理解し、日本語に翻訳するということは、上の問いの大本に直かに接することができるという経験である。

[追記]
詩文楽のアイヒェンドルフについての文章をお読み戴けると、嬉しい。:【Eichendorfの詩 8-3】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 3;http://shibunraku.blogspot.jp/2012/08/eichendorf-8-3der-wandernde-musikant-3.html

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