2012年9月15日土曜日

安部公房の手3



安部公房の手3


安部公房全集の中にある「手について」という題のエッセイは、極く短いものでした。

やはり、高いけれども、安部公房が本格的に演技論として論じた手については、「手について」という同じ題の1万円の本を買う以外には無いようです。

さて、今このエッセイを読みますと、やはり安部公房は手というものを「むしろ沈黙の領域に属するもの」だといい、「ものとの関係で初めて雄弁なので」あり、それは「主体の飾りもの」ではなく、それは人間関係の内外にある「見えない物や、見える物が、複雑にからみあいながら埋めている」その「沈黙の領域」を、眼や口とともに、示してくれるものだと書いています。

また、「手は、眼や口のような、直接的な伝達の器官ではない。」と書いていますので、手は間接的な伝達の器官ということになります。

このような文意を読んで来て思う事は、安部公房の思考の中心にある次の思想です。それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これは、そのまま安部公房の言語論、あるいはクレオール論の核心でもあるでしょう。それから、とうとう書かれることのなかったアメリカ論の。

同じこの思想を、「第1の手紙~第4の手紙」(1947年。全集第1巻)では「歩道」と呼び、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」(1942年。全集第1巻)の中では「遊歩道」と呼んでいるものに同じです。

言語論としての安部公房の言語論は、上のことからも明らかであるように、言語機能論です。

安部公房の言語論については、また稿を改めて論じたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿