2016年10月21日金曜日

村上春樹白鼠論

村上春樹白鼠論

私は、「村上春樹と哲学」で、次のやうに書きました。

「多崎つくるの小説を自分としては高く評価してゐて(世評とは逆のやうですが)ー文庫本の259ページ)、ここの記述を読みますと、村上春樹は間違いなく次の小説を書いてゐます。あとがきは、2015年の6月付け。

それはどのやうな小説になるかといへば、上に述べた哲学的思考の不得手であることを、小説の文章を書くことによってmetaphoricalに隠喩を使って克服し、それによって現実と虚構の世界を、前者は他者の世界、後者は自分個人の世界ですが、これら二つを一致させようと(316~317ページ)してゐることがわかります。

この二つの世界の分裂を、15歳の自己の分裂と重ね合はせて、metaphor(隠喩)によって克服しようといふのです。これが、次の作品になるのでせう。その感触を、多崎つくるで得たといつてをります(317ページ)。」

この文章は、更に、今までの考察を元に一歩を進めると次のやうになります。

15歳までは一つでゐられた村上春樹は、15歳でカフカの「城」を読んで衝撃を受け、その衝撃によって自己が二つに分裂した。これは、カフカ賞の受賞の時の講演の通りです。

それまで、僕は鼠だと思ってゐた僕が、また僕で有る鼠が、分裂した。これをそのまま書いたのが、処女作から「1973年のピンボール」の初期四部作だった。この世界では、僕は鼠であり、鼠の浄土にゐられた。即ち、白鼠であることができた。しかし、この書き方に限界を感じ(これは「職業としての小説家」に書いて有る通り)、丸谷才一の第一回の芥川賞候補の選評の言葉を指標にして「大柄な」作家にならうとした。つまり、それまでの世界は終わりになり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を書いた。

時間のない鼠の浄土であり、四部作の最後の「1973年のピンボール」では、主人公が灯台の有る岬まで行くことを「何にも増して親しいものであった」「灯台への道」の行き来を繰り返し楽しみにしてゐたものを、それができなくなって、世界の果てが「世界の果て」ではなくなり、「世界の果て」は、「世界の終わり」になった。これが第5作目の題名の由来であり、この小説の中で、主人公がもはや鼠ではなく、一人称が同じ一人称同士の僕と私になって分裂して、それぞれが一つの世界にゐることになる理由です。

即ち、一つの主人公の中にゐた僕と鼠、鼠と僕といふ、一人称と三人称の等価の交換関係が壊れてしまった。そして、僕は私で有るといふ再帰的な関係を選択した。その代わりの代償として、村上春樹の創造する虚構の世界では、一人称同士が分裂してしまった。僕が鼠、鼠が僕であった15歳の僕であり私で有るといふ「ことば」(死者の世界、鼠の浄土の世界の言葉)で表せた自己が、第5作目では、僕は私であり、私は僕で有るといふ再帰的な自己に、自分が現実世界で、この地上世界で「職業としての小説家」として生きようとしたら、虚構の、鼠の浄土の、死者の世界の「ことば」であった筈の言葉が、生きた人間たちの話す「言語」になってしまひ、一人称は二つの一人称に分裂してしまった。

15歳の自己の分裂が、「ことば」によってゐた空間的な時間のない自己分裂から、今度は「言語」による時間的な時間の流れる分裂世界での自己分裂になってしまった。子供の時から周囲の大人たちは勿論、学校の同級生たちにも黙ってゐた「世界の果て」、そこには海に出てゐる岬があって、その突端には灯台がたち、夜になると海を行く船の行方を照らす灯台となって、即ち三島由紀夫の世界ならば塔になって、即ち詩人になって、地下世界の闇の中の無時間の世界で生きてゐられたものを、もう行くことは叶わずになってしまった。村上春樹は、夜の海へ出て行かうとしたのか?それとも、陸地にもどらうとしたのか?

三島由紀夫の場合ならば、船に乗って船の上の塔である帆柱の高みにあって歩墻を義務付けられてゐる二等航海士の職務を果たすことができて、塔の高みにゐれば無時間の静謐の世界にゐることができるが、しかし、村上春樹にとっては、その塔である灯台は、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では壁の中にあって、話者としての主人公の一人称が、そこに立ってはゐても、登ることのない、名前だけの塔にとどまってしまってゐる。いはば、死んだ塔になってゐて、主人公にとって少しも生きてはゐない。「羊をめぐる冒険」では、その予兆として「空中に浮かんだ目には見えぬ壁にふと手を触れてしまったような悲しい気持ちになる」と、このことが書かれてをります。

海と陸、無時間と時間、死の世界と現実の世界、地上世界と地下世界。最後の対語の前者は、三島由紀夫の世界、後者は村上春樹の世界。これらの裏表の関係と対立が、第4作の「羊をめぐる冒険」の第1章を「1970/11/25」と題して置きながら、それを「午後のピクニック」(「午後の曳航」ではなく!)と更に下位の題名に分解して、baseball gameの第5回目で三島由紀夫の死に「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」と書いた理由なのです。7回目のinningで、それまで死の世界にゐた主人公の愛した女性はどうなったか?6日目で天地創造が完成して、平安と祝福の7日目で有る筈のものを、村上春樹は、たった一行で、かう書いてゐます。(かうしてみますと、方向を指差す標識の図柄は、inningの進展と攻守の交代を示してゐるのです。)

このピクニックは「水曜日のピクニック」と、根の国に行くことになってゐるこの若い女性によって呼ばれてゐます。Baseballの第3inning、即ち天地創造の三日目であり、唯一絶対神が天の下に、乾いて水のない土地を大地と呼んで創造し、水を集めて海となした日であり、前者には植物を茂らせて種子(ザーメン、男子の精子の意味でもある)と撒かせて、果実を実らせ、また果実が精子を産んで自身に含み地上に落とすといふこの循環を想像する日です。すなはち、この午後のピクニックは、「午後の曳航」とは全く正反対に、海の上にある船の上の高いマストに登って時間のない詩人の塔にゐるのではなく、正反対に野原の水平な地面の上にゐて、二人の男女が性愛を交わすためにある「午後のピクニック」なのです。

それ故に第1章を「1970/11/25」と題した章の中の第5章(第5inning)のはじめの一行では、「一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後」と呼ぶのであり、その「奇妙な」「午後の曳航」の時間を、「僕ははっきりと覚えている」と、村上春樹は書くのです。この午後とは、第五回のinningの表を言ひ表してゐるのです。そして、7回の最後は次の一行で始まります。

「一九七八年七月彼女は二十六で死んだ。」

死んだのか殺されたのかは、鼠である僕にはよくわからないのは、多崎つくるの物語と同じです。

「ねえ、私を殺したいと思ったことある?」と彼女が訊ねた。
(略)
「ないよ」と僕はいった。
(略)
「何故僕が君を殺さなきゃいけないんだ?」
(略)「ただ、誰かに殺されちゃうのも悪くないなってふと思っただけ。ぐっすり眠っているうちにさ」
(略)
「二十五まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」

そしてinningが変わって、

「一九七八年七月彼女は二十六で死んだ。」

といふ一行が第8回の冒頭の一行なのです。

三島由紀夫の死んだ1970年をbaseball gameの第一回とすれば、1978年は、6日目で天地創造が完成して、7日目で唯一絶対の天地の創造主が平安をとり安らいでゐる日の翌日です。そして、その後に、9回目のinningが来る。8回目には蛇にそそのかされて知恵の木ノ実を愛し合う二人は食べ、9回目にはそれが原因で楽園から創造主に永遠に追放されて現実世界の中に死すべきものとして入って来る。1978年7月といふイヴである若い女性の死んだ日である楽園の中の7日目は、其のやうなinningなのであり、それが1978年といふ8inning目の楽園追放の年であり日なのです。

そして、7月はbaseball gameの7回目、天地創造の完成した日です。ここで、村上春樹は、永遠の楽園の追放と、現実の時間のあり死も有る世界を二つ並べて、生と死入れ替え入れ籠にして交錯させて、二つの関係を、即ち生と死、愛し合う男女、鼠の浄土である地下世界と追放された人間の住む地上世界を、(安部公房ならばいふところの)内部と外部を交換して繋ぎ留め、それによって、二人を永遠に此の構造の中に生かすために、もっと言えば二人と二人の愛と此の女性を追悼し荘厳するために、このやうに数字を以って書いてゐるのです。やはり、既に書いたやうに、「村上春樹にとっては、アメリカの文化を、その文学も含み、死者を追悼するために必要としてゐる僧服」なのです。自分の父親が必要としたやうに。

それゆえに前の👈で示される7回目の最後では、愛する女性は「二十五まで生きるの」と言い、「そして死ぬの」と続けるのです。さうして実際に8inningでは👈によって攻守交代を示してから、

「一九七八年七月彼女は二十六で死んだ。」のです。

ここでも延長戦で、25ではなく26で、つまり、しかもプラス1点であるのに、それがマイナス1点を示す形で、プラス1点なのに命を失うのです。これが村上春樹の世界を理解する論理であり、現実を虚構化する論理です。同じ使用法の数字が、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でも、地下世界からやっとのおもひで逃げてきた男女が地上にでたところが神宮球場で、村上春樹の大好きなヤクルト・スワローズが相手チームに6:5で、とくれば普通には、勝っていたと続くものを、負けてゐたと書いてをります。

さて、上に述べたやうな死に方を、読者には知られない贋の創世記の中で、それぞれ対立するものの交換によって、その幽冥境を異にする其の接面で、あるひは接触面で、接続の面で、するのです。この接続面については、内部と外部の交換関係の可能性と不可能性は、「職業としての小説家」の280ページに、「重要なのは、交換不可能であるべきは、僕とその人が繋がっているという事実です。どこでどんな具合に繋がっているのか、細かいことまではわかりません。ただずっと下の方の、暗いところで僕の根っことそのひとの根っこが繋がっているという感触があります。」と述べてゐる、読者論の一部として明確に語られてゐます。村上春樹の物語と其の世界は、古代以来の実に日本の、日本的な、根の国の物語であり世界なのです。

この根の国との関係では、その作者ー読者論に於いては、地上の世界に生きる「架空の読者」とは交換可能であり、即ち社会的な役割の交換関係の中にゐる人間だと考へてをり、読者ー作者の関係では此のやうに読者といふものを理解をし、更にそれらの社会的な役割は「交換可能なもので」あるといふ理由から、「要するにそういうのはとくに重要な要素ではないということです。」と述べてゐます。これが第4作の「羊をめぐる冒険」の第1章を「1970/11/25」と題しておきながら、それを「午後のピクニック」と更に下位の題名に分解して、baseball gameの第5回目で三島由紀夫の死に「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」と書いた理由なのです。5回のinningは、造物主が天地の中に自然と生きと生ける生き物たちを創造し、生命を創造した日です。この対比対照を、三島由紀夫の読者は理解することができない。「午後の曳航」は「午後の曳航」であらねばならず、「午後のピクニック」であってはならないから。つまり、村上春樹は三島由紀夫を相当に読み、そして、深く理解してゐるのです。

【註】
処女作の架空の作家の父親の職業は「無口な通信技師」であり、通信技師といふ接続線を使って他者と意思疎通をする職業の男である。これは多崎つくるの駅舎の設計技師に同じ職業である。

母親は「占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな女だった。」クッキは、アメリカ人が心を許した他者に対して、自分の家の奥に招じいれて提供するお菓子であり、私はあなたに心を許してゐて、心からあなたを迎ひ入れますといふ(日本ならば京都人にでもありさうな、さう村上春樹は京都生まれだった)、そのやうな意味を無言の、沈黙の、無口のままに相手と共有することの意思疎通のための、アメリカ人にとっては重要な、お菓子です。村上春樹は、このことを十分に知ってゐる。インターネットの今ならば、あなたのPCの奥深い内部ににクッキーを置くことをあなたが許可することを求められるのと同じです。どの領域にあっても、言葉の概念は変はらない。

占ひもまた、当たるも八卦当たらぬも八卦、上に述べた地上世界と現実世界の交換される接続面が、一体二人の息子である架空の作家デレク・ハートフィールドに、これらの両親のことが虚構の世界のDave Hiltonにどのやうな影響を及ぼしたか?ハート・フィールドが高校卒業後に努める郵便局も意思疎通のための接続点、あるいは接続面であり、ここに書かれてゐるハイスクール時代のハートフィールド像は、「陰気なハート・フィールド少年には友だちなど一人もなく、暇を見つけてはコミック・ブックやパルプ・マガジンを読み漁り、母のクッキーを食べるといった具合にしてハイスクルーを卒業した」といふ像は、これは「職業としての小説家」に書かれてゐる、友達のゐない高校時代の作者の自画像なのです。確かに村上春樹の小説は、見方をかへれば、それは根の国との往還の古代日本からの神話の世界の話でありますから、「彼の小説の殆どは冒険小説と怪奇ものであり、その二つをうまく合わせた「冒険児ウォルド」のシリーズは彼の最大のヒット作とな」ったのです。

さて、それでは何故、ハートフィールド、虚構の世界のDave Hiltonは、「実に多くのものを憎んだ。郵便局、ハイスクール、出版社、人参、女、犬、......数え上げればキリがない。」何故ならば、郵便局は地上世界の通信局であるから、ハイスクールは「職業としての小説家」に60を過ぎてからも書いてゐる通りに陰気な高校生であった自分のシステムと違った社会システムだったから、その間の接続面を一致させるのに難儀した教育制度であるから、出版社も同様に地上のマスコミ、即ちmassiveなcommunication社であり通信局であるから(だから村上春樹は出版社が嫌いなのである)、人参は地上世界と地下世界の中間にあって両方の世界に埋まってゐるから、さうして動かずにゐてちっとも(デレク・ハートフィールドの小説のやうには)「冒険小説と怪奇もの」ではないから、女は?この異性もまた、地上世界だけの生き物であって、地下世界に手を携へて村上春樹と一緒に降りて「重要なのは、交換不可能であるべきは、僕とその人が繋がっているという事実です。どこでどんな具合に繋がっているのか、細かいことまではわかりません。ただずっと下の方の、暗いところで僕の根っことそのひとの根っこが繋がっているという感触があります」といふ此の感触を授けてくれることはできないから、できるのは処女作で死んだあの接続面に生きる、幽冥境に生き且つ死んでゐる若い女性しかゐないから。犬は?地面に穴を掘るから、そして自分自身を犠牲にしてその穴に身を投げないから(これは村上春樹自身の姿だから)。さう、数へ挙げれば切りがない。

それでは、この架空の作家の好きなものは3つ、即ち「銃と猫と母親の焼いたクッキーである。」

何故此の三つが「三つしかない」ほどに好きなのか。銃は勿論地上世界の人間たちを男女を問わずに殺すため、猫は地面に穴を掘らないから、母親の焼いたクッキーは上述の理由で自分自身を愛情を以って、作家に心を開いてそのままに受け容れてくれるから。といふことになります。

しかし、此の作家は1938年に(これもbaseballに関係があるでせう)「母が死んだとき、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステートビル」といふ陸地の世界の果ての灯台から身を投げて「蛙のようにペシャンコになって死んだ」のです。

「彼の五作目」(第5inning!)「の短編が「ウェアード・テールズ」(magical, strange, ill fortuneの物語といふ意味)に売れたのは1930年」ですから、この作家の死んだのはGodが天地創造過程のの中で自然と生きとし生けるものを創造した日であり、ニューヨークの世界一高い塔といふ灯台の上から身を投げたのは1938年、即ち第8inningで、楽園を追放される前の日、蛇にそそのかされて林檎の実を二人が食べて愛しあふことに目覚めた日、創造主から見れば罪を犯した日である。

この日にハートフィールドは「1938年6月」(第6inningは造物主が人間を自分自身に似せて創造した日である)「のある晴れた日曜日」(第7日の安息日!)「の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りたのだ。彼が生きていたことと同様、死んだこともたいした話題にはならなかった。」(この最後の行は、第4作の「羊をめぐる冒険」の第1章を「1970/11/25」と題して置きながら、三島由紀夫の死に「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」と書いた考へ方と同じです。)

右手のヒットラーの肖像画は父親を、そして左手に持った傘は母親を意味してゐるのでせう。生きることとの関係では、一人息子には父親は厳格に見えた。他方母親は、そのやうな息子に、雨が降れば傘をさしてくれて、この地上世界で孤独な息子の命を救ってくれた。しかし、その母親の死んだ日に、誰もそのような女性はゐなくなった。ヒットラーの肖像画と傘を持ったハートフィールドは、「蛙のようにペシャンコになって死ん」だ。本当はハートフィールドは、灯台の照らす夜の闇の中に生きて出帆したかったが、それができなかった。何故なら、自分は蛙のやうな小さな生き物であり、確かにハートフィールドが自分の小説に書いたやうに「宇宙の複雑さに比べれば」「この我々の世界などミミズの脳みそのようなものだ」からである。蛙は、海の水の中にではなく、陸地の池といふ小さなの中で泳ぐ、そして泳げる、確かに小さな動物である。

もしハートフィールドが、自殺するために両手に両親を抱いて其の力を借りずに、処女作の第1章にあるやうに語り手の僕といふ象が象の谷を出て再び「平原に還り」「より美しい言葉で世界を語り始める」ことができるようになるためには、その第40章にある通りに「自慢の品」である「銃把に真珠の飾りをつけた38口径のリヴォルヴァーで、それには弾は一発しか装填されてはおらず、「俺はいつかこれで俺自身をリヴォルヴするのさ」といふ「口癖」通りに自殺をすれば、ハートフィールドといふ「象は平原に還り」「より美しい言葉で世界を語り始める」ことができるようになってゐたことでせう。村上春樹はハートフィールドを虚構の世界で殺して、自分は生きてゐることができた。これは、優れた作家の小説と現実と自分自身の関係です。ゲーテが「若きウエルテルの悩み」を書いて、主人公が自殺をし、自分は現実の世界で生き延びたやうに。

さて、これが、村上春樹の世界の物語の構造です。

更に、さて、最新刊の多崎つくるの物語では、主人公は勿論この、村上春樹が接面と呼ぶ、地上世界と地下世界の接続面である駅舎を設計する設計技師です。この虚構の中の社会的な役割は、作者が考へる交換関係にある読者の役割とは正反対に、作者そのものの幼い頃からの、さうして「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を自覚的に「大柄な」小説として書こうと意識してからの明瞭な、現実的な小説家としての、社会的な交換関係にはない自分自身の設計技師としての役割なのです。この経緯は「職業としての小説家」の247から248ページに率直に自分の言葉で語られてゐます。

「職業としての小説家」に於いて述べてゐる、多崎つくるの物語は「僕にとっては決して小さくない意味を持つ作品になっているかかも知れません。形式的に言えばいわゆる「リアリズム小説」ですが、水面下ではいろんな物事が複合的に、またメタフォリカルに進行している小説だと僕自身は考えています」といふ言葉は、この作家のこのやうな小説の構造との関係で考へますと、やはり初期四部作に、即ちやっとまた僕は鼠であり、鼠は僕であるといふ世界に回帰することがmetaphoricalにできるといふことを率直に述べてゐるのです。

私は、「Peter Catでの村上春樹」で次のやうに書きました。

「「ノルウエーの森」の歌詞もまた、かうして改めて読み直してみますと、誠に村上春樹の主人公と愛する女性との関係そのものであると解釈することができます。

その女性の部屋はノルウエー産の木材でできてゐて、別れたあとも暖炉の火はノルウエー産の木が燃えてゐて、ノルウエー産だから、その火は、永遠に消えることがなく、その空間もノルウエー産だからいつまでも不変である。

これは、このまま多崎つくるの物語で、何故三塁にノルウエーに住んで土に穴を掘って陶土を掘り出しして陶芸作品を製作するクロと渾名で呼ばれる女性の芸術家を配したのかといふ理由になるでせう。このクロの家には間違ひなく暖炉があり、ノルウエー産の木が燃えてゐて、他方、シロは密室である部屋の中で死ぬ、それも殺される。後者の部屋もノルウエー産の永遠の木材ででてきゐたのではないでせうか。だから、夢の中でこの二人の女性が出て来て、いつも最後に交はるのは後者である。この殺された女性は、Katie Kacy、即ち「直子」であって、実は主人公が殺したのではないか?と、確かに自己犠牲の女性のことを、主人公はさう思ふやうに書かれてゐます。これが、村上春樹の心事です。」

この「村上春樹白鼠」論で、上のやうに考へて参りますと、多崎つくるの物語で、何故主人公の駅舎設計技師の地上世界でみる夢にクロとシロの二人の女性が登場して、いつも後者と性愛を交わす結果になるのかの理由がよくわかります。

二つの世界を接続する駅舎の設計技師は、地下の世界に降りて行って、シロ鼠に再びなることができるといふ、あの初期四部作に登場してゐたもう一つの自己である三人称の鼠がシロといふ根の国の女性と交はることで、シロ鼠になり、地下世界へと自己分裂せずに降りてゆく物語りを書くことができるといふことを確信させたのが、村上春樹が「メタフォリカルに進行している小説だと僕自身は考えてい」る理由なのです。

即ち、僕は鼠だ、それも若い女性と根の国で交はることで、自分は再び僕は鼠だといふ一行の文を書くことができると、60歳を過ぎた男である村上春樹は考へてゐるといふことなのです。それも、今度ははっきりと、それまで地下世界の中に隠してゐた白といふ色彩を地上世界に持ち出して、僕は実は白鼠なんだよといふ一行を書くことができる。

さて、これがもし処女作の主人公、ハートフィールドが虚構の世界で語ったやうに、「自慢の品」である「銃把に真珠の飾りをつけた38口径のリヴォルヴァーで、それには弾は一発しか装填されてはおらず、「俺はいつかこれで俺自身をリヴォルヴするのさ」といふ「口癖」通りに自殺をすれば、ハートフィールドといふ「象は平原に還り」「より美しい言葉で世界を語り始める」ことができるようになるのでせうか?この最後の一発を「ミミズの脳みそのやう」である自分自身に撃つことができるのでせうか?

これができれば、デレク・ハートフィールドといふD.H.体験が一層に昇華されて、村上春樹の創造する僕といふ一人称は、3塁といふ第3番目のbaseを遂に廻って、つまりあれほど嫌いだったbatを振ってrunnerとして、home plateといふ故郷へ到頭回帰することができるでせう。即ち、それまで棲んでゐた浄土の世界から白い神聖なる大きな象が、谷から平原へと回帰して、小さなミミズのやうな白い鼠になって帰って来る。その時には、内部と外部がまた再び逆方向に交換されて、二つの世界の接続面で実際に現実に生きることのできるといふ実感を作者はもつことができるのです。

さうなれば、きっと初期四部作で、僕であった鼠、さう白鼠とは決して書いて其の身分を明かすことができなかったあの鼠は、僕自身に対してのみ書いてきた再帰的な小説の中の、セックスのない男の主人公ばかりしか書けなかった小説であったものを、鼠は初めて女性と性交するする小説を書くことができることでせう。

もしこれが書けたら初めて、安部公房や三島由紀夫と同列の、村上春樹は、一流であり且つ一級の小説家といふことになります。

一体どうやって、どんな自殺を図るものか。これが次作の、読者の関心事、作者の心事だといふことになります。

この自殺が成功したら、きっと村上春樹の墓は、ハートフィールドの墓と同じやうに「ハイヒールの踵くらいの小さな墓です。見落とさないようにね。」と、「ハートフィールド研究家であるトマス・マックリュア氏が手紙で教えてくれた」通りの墓を建てることになります。「ハイヒールの踵くらいの小さな墓」とは、やはり、ハイヒールは地面に穴を開ける、それも女性の、靴であり、その穴は小さな「ミミズの脳みそのやう」穴であるからです。

最後に付言すれば、村上春樹は自分が小説家としてimpotenzであることの十分な自覚を既に処女作の時から(といふことはそれ以前から、もっと前の(遅くても)小学生のときから)持ってゐます。何故ならば、ハートフィールドの記事を書いた「マックリュア氏の労作」の本の題名が「不妊の星々の伝説」(Thomas McClure; The Legend of the Staerile Stars: 1968)」といふのだからです。不妊との星々の一つが自分であることを、村上春樹は十分に知ってゐる。Impotenzとは勿論精神的にといふ意味です。しかし、この精神的な男のimpotenzは実に性に深く根を下ろしてゐて、その性的な倒錯の因をなしてゐる。

恐らくは、村上春樹には子供はゐないのではないでせうか。それが生理的な理由であればあれ、またしかし、作家本人の意志によるものだとしたら、いやいづれの場合であるにせよ、このやうな星々の伝説を書くのですから、村上春樹は埴谷雄高の「死霊」の最も良い理解者の一人でありませう。村上春樹の死霊論を読みたいものです。哲学の領域に足を踏み込んでもらって。


次回は、村上春樹の初期四部作に登場する「鼠は日本を、ジェイはアメリカを表してゐます」と書いたうちの後者に焦点を当てて、ジェイとは誰か、ジェイズ・バーとは何かといふお話をもう一歩を進めてして、村上春樹といふ人間をあなたに伝へたいと思ひます。

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