卵をめぐる冒険
~三島由紀夫の卵と村上春樹の卵~
目次
0。はじめに
1。三島由紀夫の卵
(1)15歳の詩集『一週間詩集』の表紙にある楕円形
(2)13歳の詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』
(3)16歳の詩『理髪師』の改作の詩『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』の楕円形:32歳
(4)小説『剣』の冒頭の竜胆の紋の楕円形:38歳
(5)小説『卵』の楕円形:28歳
2。村上春樹の卵
(1)『風の歌を聴け』に出てくる卵
(2)イスラエルでの演説の中の譬喩「卵と壁」の卵
(3)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる卵
(4)『1973年のピンボール』の中に出てくる女の子の双子:Humpty Dumptyの卵
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0。はじめに
三島の卵は、短編小説『卵』にある通りに、強い生命の卵、対して、村上春樹の卵は弱い人間の卵といふ対照があります。
前者は(この小説の中でのように)世の中を根底からひっくり返し、後者は自分が壁にぶつけられて壊れてしまふ。
前者はフットボールの形に通じ、やはり生命力旺盛で強壮な卵、後者は、暑さでやられて固茹でになるための卵。後者の意味は、卵の黄身と白身といふ異なるものが、熱せられて形はそれぞれであるものの、個体となつて一つになるといふ意味の卵です。長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中に其の譬喩が出てきます。
前者は割られて黄身も白身も出てきて、一気に若者たちの胃袋に飲み込まれて、競艇やその他の日常の乱痴気騒ぎのための生命力へと転化するのに対して、後者はさうではなく、逆に固茹でになつて、ハードボイルドの卵になって動かなくなつてしまふ。
ちなみに、安部公房には、『鉛の卵』といふ短編があります。これは冬眠器に入って眠り、80万年後の未来に目覚める筈の人間がタイムマシーンの不具合で早めに目覚めてしまふ事の顛末の話です。
1。三島由紀夫の卵
楕円形や立体の卵や類似の形象であるフットボールや同じ類型の植物の実やらは、三島由紀夫にとってはみな、その形象と形態からいつて、生命力を意味します。
以下に例を挙げます。
(1)15歳の詩集『一週間詩集』の表紙にある楕円形
自作の詩集の扉に楕円形の切り抜きをした詩集がある。『詩を書く少年』の中にその詩集の楕円形の話が出てくる。その写真が詩集の写真です。
表紙の半ば上にある横長の形が楕円形で、その下の詩の題名が見えるやうに工夫してある
(2)13歳の詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』
13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩に、この植物の楕円形の実をを歌うてゐます(決定版第37巻、206ページ)。
この実は、茎と枝の交差するところに近く実をつけると見えます。
いづれにせよ、三島由紀夫の強い関心を惹いたのは、この葉っぱが十字形をしてゐるからです。この深い関心は、下記に述べるダリの十字架の絵に対する好みに通じてをります。
「(4)小説『剣』の冒頭の竜胆の紋」の下記の「I 双葉竜胆とは何か」を参照下さい。
(3)16歳の詩『理髪師』の改作の詩『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』の楕円形:32歳
ここにある立体3次元のフットボールは、双葉竜胆の紋章の楕円形であることは、下記「(4)小説『剣』の冒頭の竜胆の紋」冒頭の「I 双葉竜胆とは何か」にある説明の通りです。
三島由紀夫は自らの肉体を鍛へる同時期の32歳に、一人夜の書斎で16歳の詩を改作して自分の人生の変貌に備へたのです。この詩は、ボディビルを始め、そのあと剣道を始めるといふ三島由紀夫の肉体の外面に対して、その志を表す三島由紀夫の内面の精神を表してゐるのです。
以下に、その詩『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』を掲げます。
「理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係
理髪師が
来る
彼は舌なめづり
する。
手足を だらりと 垂らし
ながら
地上の
ありと
あらゆる林
あらゆる森
あらゆる人類
あらゆる尖塔
を
刈つてゆく。
シナの女の
黒い流眄(ながしめ)と
纏足(てんそく)の
橙色の臭気と
シナ宝石の
肉の匂ひと
これらの
ものが
フットボールの
食慾を
そそつた。
彼は
夕焼の不吉な空をなめた。
赤い鏡に
舌が映つた。
歯は
おごそかに並び
苦悶してゐる太陽を
噛み
嚥(の)み下した。」
この詩の第一連が「理髪師の衒学的欲望」を歌つたものであり、第二連が「フットボールの食慾」を歌つたものであり、第三連が、これら二つの欲望と食慾の「相関関係」を歌つたものです。
16歳の同じ主題、即ち蛇である理髪師を歌つた『理髪師』と題した詩との大きな相違は、この32歳の時の蛇である理髪師を歌つた同じ詩では、十代の詩『理髪師』と同様に、三島由紀夫があれほど大切にしてゐた塔までをも、理髪師たる蛇は「刈つてゆく」ことです。しかも、その殺人が徹底的であることには、やはり同様に「あらゆる尖塔」を「刈つてゆく」のです。
これは、自殺に等しい行為であると、わたくしには思はれる。
16歳のときに何故その詩を書いたかについては、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く15:イカロス感覚5:蛇』で詳細に論じた通りです(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html)。
しかし、32歳の三島由紀夫が何故同じ詩を改作して、再度自分の中の殺人者を確認しなければならなかったのか、その殺人者を新しくしなければならなかつたのか。三島由紀夫は、さう思はないほどに真剣に思ひ、命を懸けてなすべき何かがあつた。それは、何か。
16歳の『理髪師』を読み、次に二つの詩を比較をして論じ、この32歳の改作の意図を論じます。16歳の『理髪師』です。
2。『理髪師』を読み解く
「理髪師
あまりにすべすべな皮膚のうちに白昼(まひる)の風の流れを見、呼
吸は漁(すなど)られた魚のやうにあさましく波打ち、遠く銀白の地
平を摩擦して行く空気の翼に似た音……
壺のなかにひろがる闇のひろさよ、零(こぼ)れ出てくる闇のおび
たゞしさよ。線は線に触れ、髪は夜の目のやうな暗い光に
濡れ……。
《真の幸福は神の餌にすぎない》
人間の幸福は求め得たものゝすべてであり、
(幸福がその日の呼吸なのだ)
と儂は言ふ。虚偽?......神様はよおく御承知だ(唾のなか
に幸福を吐き出し、汚なさうに投げ捨てる)
沙漠と鉱山の縦坑と、尾根と、尾根の抱く朝と、広いも
のは窒息させる、其処で、……蛇は空を自分の毒牙で量つ
てゐた。……理髪師がくる。彼は舌なめづりする。手足を
だらりとたらし乍ら、地上のありとあらゆる林、あらゆる
森、あらゆる尖塔を刈つてゆく。―――鐘の
うしろに夜が居る……わしは赤インキを顔にぶつかける、
そこで正午(まひる)が呆けた人形のやうにぶら下がる。」
(決定版第37巻、685ページ)
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く15:イカロス感覚5:蛇』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html)から引用して、以下に、この16歳の蛇の解説を致します。:(略)」
(4)小説『剣』の冒頭の竜胆の紋の楕円形:38歳
「I 双葉竜胆とは何か
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀』で論じ、明確に定義することの出来た三島由紀夫の作品群の分類から考えると、これは、叙情詩としての小説といふことになります。その箇所を引用します(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)。
「(22)『剣』:1963年10月:38歳
「黒胴の漆に、国分家の双葉竜胆の金いろの紋が光つてゐる。」
双葉竜胆の紋とは、次のやうな繰り返しの模様、即ち対称性を備えた文様です。
この同じ形象に、三島由紀夫の好きであつたダリの描いたキリストの磔刑の十字架の絵があります。
即ち、この紋の図柄で、三島由紀夫が一番魅かれるものは、十字の交差した中心にある円形の場所にあるのです。
この場所には、繰り返しの中にあつて、時間のない積算の値の存在する、さういふ意味では『天人五衰』の最後の月修寺の庭前にあるのと同じ、三島由紀夫が終生求め続けてやまなかつた静謐静寂の空間が、否、時差があるからです。このことについては、次の考察をご覧ください。:
1️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html
2️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html
また、三島由紀夫が楕円形が好きであつたことについては、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)の[註1]をご覧下さい。」
今、その[註1]から以下に引用して、再掲します。
「さて、三島由紀夫の小説が叙事詩だといふことに関する考えは、私の仮の説であり、仮説です。しかし、十代の次の詩が、丁度、叙情詩、叙事詩、そして小説といふ時間の順序で展開してゆく其の中間状態の移行期の姿を示していて、わたしの仮説は、正しいのではないかと思はれます。
この仮説を証明する其の詩は、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)[註1]
[註1]
桃葉珊瑚(あをき)といふ題の言葉と、この老いの記の内容との関係を稿を改めて明確にすること。この時期、三島由紀夫は桃の詩を幾つも歌つています。桃と桃色の意味を解く事を後日致します。今ここで少しく考察を加えてをけば、次のやうになります。
桃葉珊瑚(あをき)といふ植物は、「葉は厚くつやがある。雌雄異株。春、緑色あるいは褐色の小花をつけ、冬、橙赤(とうせき)色で楕円形の実を結ぶ。庭木とされ、品種も多い。桃葉珊瑚(とうようさんご)。」[『大植物図鑑』>「アオキ Aucuba japonica 桃葉珊瑚(1034)」:https://applelib.wordpress.com/2009/05/09/1034/]
この説明をみますと、三島由紀夫は、この当時楕円形といふ形が好きであつたやうに思はれます。何故ならば、この実は楕円形をしてをり、小説『詩を書く少年』の中で、13歳ではなく15歳といふ年齢設定ではあるものの、主人公の製作する詩集は「ノオトの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁のPoesiesといふ字が見えるやうにしてある」表紙を備えてゐるからです。
しかし、いづれにせよ『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ《EPIC POEM》(叙事詩)を読みますと、その主題は、ある老いた人間の死と、その理由の誰にも知られない無償の自己犠牲によつて起こる生命の蘇生といふ主題ですから、この桃葉珊瑚(あをき)に永遠に繰り返され、冬の季節の後に到来する春に再び此の世に現れる強い生命力をみてゐたことは間違いありません。
さうすると、同様に此の時期歌ふことの多かつた桃についても、その形状と色彩と其の色艶に、同様の魅力を覚えたゐたことが判ります。桃を巡る形象は、夏であり、青空であり、泉であり、川の流れであり、その青色を映す湖であり、青色そのものである海であり、これらの歌われる春と夏の季節であり、また夜であり、月であり、月の光であり、黒船であり、とかうなつて来ると季節の秋もあり、夜に響く谺(こだま)といふ繰り返しの声があり、また桃の果樹園であり、桃林なのです。
『奔馬』で、この物語の最後に主人公が死を求めて、夜の海へと駆ける場所は、桃の果樹園ではなく、蜜柑畑といふ果樹園です。最晩年の三島由紀夫が蜜柑といふ果実と其の果樹園といふ場所、それも夜の海を前にした言はば庭園といひ庭といふことのできるやうな場所に何を表したのか。」
今、改めて、この「黒胴の漆に、国分家の双葉竜胆の金いろの紋が光つてゐる」といふ其の双葉竜胆の紋章を見ますと、確かに、三島由紀夫が1957年、32歳の時に、即ちこれから剣道に打ち込まうと決心した年の前年に再度16歳の詩『理髪師』を改作して『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食欲との相関関係』と改題した此の二度目の理髪師の詩の第2連に登場するフットボールの形状と全く同じであることに気づきます。
このフットーボルは、読者ご存じのやうに運動競技の一つであり、そこで競技場を鍛へられた肉体を持つ運動選手たちに投げられ蹴られて其の生命の限りを尽くし尽くされる物体としてあるものです。
同じ詩想から書かれた詩に、詩集『HEKIGA』にある「玩具」の中の連作の最初の「a 独楽(「それは……」)」であり、もう一つは『聖室からの詠唱』所収の「幼き日」の中の最初の詩「独楽(「音楽独楽が……」)」という,三島由紀夫が十二歳から十三歳にかけて書いた詩があります。
これは、やはり十六歳の短編小説『花ざかりの森』の最後に「「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない。生(ゐのち)がきはまつて独楽の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……」とある独楽であるのです。
即ち、このフットボールは、十代の詩の独楽と同じ詩想より生まれた、43歳の三島由紀夫が文武両道のうちの武を思つた時に(十代の詩を読み返へして想起し追憶して)生み出した切実な、といふ意味は、自分の一回限りの人生に首尾一貫性を与へる大切な形象なのです。
双葉竜胆もまた同じ楕円形である以上、三島由紀夫にとつては、同じ意味を有してゐます。如何にして、文の楕円形を武の楕円形に変形したのか。
双葉竜胆の意義を知るために、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く25:二人の理髪師』より当該箇所を再掲します。(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html):
「5。フットボールとは一体何か
さて、フットボールとは一体何でありませうか。
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html)から引用してお伝へします。:
「[註3]
三島由紀夫は、十二歳から十三歳にかけて、十代で独楽という題の詩を二つ書いております。一つは、詩集『HEKIGA』にある「玩具」の中の連作の最初の「a 独楽(「それは……」)」であり、もう一つは『聖室からの詠唱』所収の「幼き日」の中の最初の詩「独楽(「音楽独楽が……」)」という詩です。
こうして、この二つの詩の表題(形式)を眺めてみますと、題名の次に括弧がしてあって、「……」が必ずあり、これは安部公房の詩にも登場する同じ「……」という符号の使い方に省みて解釈をすれば、文字通りの余白であり、沈黙であり、そこにこそ自己の本来の姿が宿っていることを意味しております。十代の安部公房の場合は、この余白と沈黙に隠れ棲む自己を「未分化の実存」と呼び、即ち存在に生きる自己と言っております。しかし、この自己は、この世の人たちからみると、ほとんど死者のありかたに見える人間のありかたです。
三島由紀夫の場合も、同様であったように思われます。
なぜならば、この独楽の詩も、登場する縁語を此処に挙げますと、それは、白銀色の金属の独楽であり、悲しい音を立て、その悲しい音は音楽であり、落ち着きもなく狂ひ廻り、従い独楽は酔ひどれであり酔漢であり、そのようにして踊りを踊るものであり、踊りたくないのに一本の縄に「その身を托されて」いる。その立てる音は、梟の不気味なほ!ほ、という夜の声である。そうして、体は小刻みに震えている。(この体の小刻みに震える震えは、『木枯らし』や『凩』の木々の震えに通じているのだと思います。)
同じ『HEKIGA』の中にある「古城」という廃墟の城を歌った詩を読みますと、ここにも梟が出て参ります。この梟は、やはり”Hoh!”と鳴きます。この梟は、話者が廃墟の城の中に向かって問いかけることに対して、この声で応えるのです。また同じ詩集の「壁画」と題した詩では、梟は「梟が鳴く/一本調子の、/嗚咽するやうな、/物悲しい、啼き声、」と謳われていて、やはり、廻転する独楽に通じる悲しみを歌っております。廃墟の古城の梟のHoh!という鳴き声もまた、同様の感情を表しているのです。
それは、廃墟の、空虚の、何もないものに対する悲しみの感情というものでありましょう。そうして、それは、一本の縄に「その身を托されて」酔漢のように踊り、廻転している悲しみであるというのです。
『聖室からの詠唱』所収の「幼き日」の中の最初の詩「独楽(「音楽独楽が……」)」という詩で「ほ!ほ」啼いている梟の声は、詩集『HEKIGA』にある「玩具」の中の連作の最初の「a 独楽(「それは……」)」で歌われている”Hoh!”と啼く梟の声に比べて、後者が説明的であるのに対して、前者は説明ではなく隠喩で歌われているだけに一層、何か酷く不気味な感じが致します。
三島由紀夫の独楽は「……」という余白、沈黙、もっと言えば、廃墟、廃絶、喪われて其処にあるもの、過去としてしか追憶できないものの中に廻っている。
これらのことが、十六歳で『花ざかりの森』を出版するまでの、十代の前半の三島由紀夫の感情生活の一端であるということになります。
『花ざかりの森』の最後にあるように、「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐」、これが独楽の目に見えない程の廻転の意味なのです。」
このフットボールは、『花ざかりの森』の最後に繰り返し廻つてゐる独楽なのです。しかし、異なるところは、上で見たやうに、移動することができるといふこと、即ち、「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐」である独楽の「生(いのち)がきわまっ」た姿でありながら、静止することなく、常に運動の生命に放り投げられ受け取られて移動し続け、宙を飛び続ける楕円形の球体、「いわば死に似た静謐」を実現した動く球体なのです。
ここまで読み解いて参りますと、三島由紀夫が此の時期に肉体を鍛え、さうして翌年33歳のときに本格的に剣道に打ち込み始めるといふ、そのこころが、そのままに写され、現れてをります。
しかも、この楕円形といふ形象は、十代の三島由紀夫の好む形象でありました。それは、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)より引用して示します。」
13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩の楕円形については、上記[註1]に引用して示した通りです。
さて、このやうに考へて参りますと、双葉竜胆の模様は、その対称性の繰り返しの姿から、やはり「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐」である独楽の「生(いのち)がきわまっ」た姿でありながら、静止することなく、常に運動の生命に放り投げられ受け取られて移動し続け、宙を飛び続ける楕円形の球体、「いわば死に似た静謐」を実現した動く球体だとはいふものの、フットボールといふ言葉に囚はれることがなければ、その文様は、そのまま、三島由紀夫の書斎の机上にある蜥蜴の姿であり、『太陽と鉄』の「エピロオグ---F04」の初めと最後に登場する、地球を円環をなして締め囲んでゐる巨大な蛇の姿に通じてゐるものでありませう。この円環をなす巨大なる蛇の環を、このエッセイでは、三島由紀夫は次のやうに書いてをります。
「 あらゆる対極性を一つのものにしてしまふ巨大な蛇の環は、もしそれが私の脳裡に泛んだとすれば、すでに存在してゐてふしぎはなかつた。蛇は永遠に自分の尾を嚥んでゐた。それは死よりも大きな環、かつて機密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを瞰下ろしてゐる統一原理の蛇だつた。」
「もしそれが私の脳裡に泛んだとすれば、すでに存在してゐてふしぎはなかつた。」とある此のイカロスとしてF104に搭乗して天翔る43歳の三島由紀夫の一行は、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』に登場する海賊頭が、主人公の殺人者の問ひに答へていふ次の言葉に他なりません。:
「「君は未知へ行くのだね!」と羨望の思日をこめて殺人者は問ふのだつた。
「未知へ?君たちはさういふのか?俺たちの言葉ではそれはかういふ意味な
のだ。------失はれた王国へ。……」
海賊は飛ぶのだ。海賊は翼を持つてゐる。俺たちには限界がない。俺たちに
は過程がないのだ。俺たちが不可能をもたぬといふ事は可能をもたぬといふ
ことである。
君たちは発見したといふ。
俺たちはただ見るといふ。
海を越えて海賊はいつでもそこへ帰る(傍線原文は傍点)のである。(略)
創造も発見も、「恒(つね)に在つた」にすぎないのだ。恒にあつた。
――さうして無遍在にそれはあるであらう。
未知とは失はれたといふことだ。俺たちは無他だから。」
この18歳の作品の海賊頭が殺人者にいふ言葉、即ち「創造も発見も、「恒(つね)に在つた」にすぎないのだ。恒にあつた。/さうして無遍在にそれはあるであらう。」といふ言葉からは、十代の詩の世界にハイムケール(帰郷)を決心した三島由紀夫が、その時代の開始の最初の年に書いた『絹と明察』の岡野のハイデッガー理解にそのまま生き生きと反響してゐます。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』より引用します。(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_22.html):
「「『ハイデッガーの脱自(エクスターゼ)の目標は』と彼は考へ続けた。
『決して天や永遠ではなくて、時間の地平線(ホリツォント)だつた。それはヘルダアリンの憧憬であり、いつまでも際限のない地平線へのあこがれだつた。俺はかういふものへ向つて、人間どもを鼓舞するのが好きだ。不満な人間の尻を引つぱたいて、地平線の向つて走らせるのが好きだ。あとから俺はゆつくり収穫する。それが哲学の利得なのだ。』」
この科白は、会話、しかも「脱自」を説く此のハイデッガーの愛読者らしく、自己との会話となつてゐます。自己といふ一番親しい者との対話。「一種夢のやうな、儚い、一瞬の美に関する夢想」。その憧憬と夢想は、「さう言葉で呼び、言ひ表す以外にはない、それ以上でも其れ以下でもない命である」。「その命の一瞬の美は、「いつまで/見てゐても」、名前の変はることなく不変である」。その美の名前の在る「いつまでも際限のない地平線」へのあこがれは、「人のこころの中で知られてゐる、普段は意識しないが、何かがあればふと当たり前の、自明のことのやうに、人々の共通の記憶として意識に浮かび、思はれる、そのやうな場合の事実の言葉である」。
さうして、このやうに思ひながら眺める車窓には、その地平線は現はれない。何故なら、この車窓の窓は、15歳の詩『凶ごと』[註5]に歌つた窓ではないから。三島由紀夫が詩人としてゐられる部屋の高みの窓は、地上では空間的に動いてはいけないのでありませう。それは、上に引用したやうに「時間の地平線(ホリツォント)」になければならないのでせう。しかもまた、それ故に、上の独白の段落の次には、
「 岡野は旅には妻子や子女を連れ歩いたことはない。それでは物事が、「たまたま」にならないからだ。いかにも恰好な時恰好な場所に、精妙に居合わせるには、一人でなければならない。」
と続けて書かれるのです。
「凶ごと」は、必然的に起こるのではなく、「たまたま」自分の意図とは無関係に、偶然に起こらねばならない。そのやうに生活を工夫しなければならないのです。そのやうな凶ごとは、塔の高みの窗(まど)から眺めなければやつて来ない。必然に対する三島由紀夫の此の偶然に関する考察は、稿を改めて論じます。
[註5]
傍線筆者。
「凶ごと
わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並みの
むかうからおしよせてくるのを。
枯れ木かれ木の
海綿めいた
乾きの間(あひ)には
薔薇輝石色に
夕空がうかんできた……
濃(のう)沃度丁幾(ヨードチンキ)を混ぜたる、
夕焼の凶ごとの色みれば
わが胸は支那繻子(じゅす)の扉を閉ざし
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。
わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した……。
(『Bad Poems』、決定版第37巻、400~401ページ)」
此の詩については、更に詳細に論ずべきことが幾つもありますので、これは稿を別に改めます。
この『凶ごと』と同じ主題の詩を含む詩に、次のやうな詩があります。
1。『枯樹群』(決定版第37巻、368ページ)
2。『鎔鉱炉』(決定版第37巻、396ページ)
3。『古代の盗掘』(決定版第37巻、720ページ)」
(5)小説『卵』の楕円形:28歳
上に述べたやうに、楕円形や立体の卵は、三島由紀夫にとっては生命力を意味しますので、卵の小説では、毎朝主人公たちは、精をつけるために卵を生のままで飲むのです。さうして、やんちゃの限りを繰り返す。
この卵を生のまま飲むことについては、ネット上に面白い解題があるので、それを引用して、お伝へします。以下のURLです。
2。村上春樹の卵
卵といふ言葉が出てくると、その前後に必ず記憶の喪失があり、その後の覚醒がある。あるいは、この順序が逆であるにせよ、記憶の喪失と覚醒に関係した話が始まるということです。
(1)『風の歌を聴け』に出てくる卵
第10章は次のやうに始まる。
「ひどく暑い夜だった。半熟卵ができるほどの暑さだ。」
Baseball gameと卵は、村上春樹の中では、大いに関係がある。
この前の章の第9章では、ジェイズ・バーで出逢つた「左手の指が4本しかな」い女の子、即ち翌日主人公の寝床で見ると「体はよく日焼けしていたが、時間が経ったために少しくすんだ色に変わり始め、水着の形にくっきりと焼け残った部分は異様に白く、まるで腐敗仕掛けているように見えた」(この死者の棲む地下世界から来た女性を「阿美」と仮に呼ぶことにする)。
主人公の部屋で二人は話をし、この「彼女の話は僕を少しばかり懐かしい気分にさせた。古い昔の何かだ。」と語られてゐる。
(略)
(2)イスラエルでの演説の中の「卵と壁」の卵
村上春樹エルサレム受賞スピーチ
少し長いのですが、全文を引用します。三島由紀夫の読者には異論のあるところを、三島由紀夫と比較をして、知つてもらひたいとおもつたからです。青い色の段落が今回の卵に関係する使用例です。
このやうな卵の死は、主人公の自己喪失と記憶喪失に関係があり、当然の事ながら時間との関係では後者といふ次第になり、前者が失はれますが、しかし、記憶が存在すれば、自己もまた時間を超えて、即ち時間を逆流して過去を想起することができるといふのが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の博士に言はせてゐる村上春樹の論理です。
世界の終わりには、白身と黄身といふ異なる二つの人・もの・こと、即ち世界が、ハードボイルドの状態になつて一つのワンダーランド(不思議の国)にならなければならない。
さて、このやうに考へた上で、
「 私は今日、作家として、言わばプロの嘘の紡ぎ手として、イスラエルまでやってきま した。
もちろん、作家以外にも嘘をつく人種はいます。皆さんご存知のように政治家も嘘を つきます。外交官や軍人も、場合によっては外交官の嘘、軍人の嘘をつきますし、中 古車のセールスマンや肉屋や大工だって同じです。しかし、作家の嘘には他の人々の 嘘とは違う点があります。作家は嘘をついたからといって不謹慎であると批判される ことはありません。むしろ、嘘が大きくて巧みであればあるほど、そしてそれが独創 的であるほど、人々や批評家から賞賛されるのです。何故でしょうか?
私の答えはこのようなものです。すなわち、巧みな嘘をつくこと、言い換えれば真実 味のあるフィクションを構築することによって、作家は真実を別の場所に晒し、新し い光を当てることができるのです。ほとんどの場合、真実をそのままの形で把握し、 正確に描写することは不可能です。だから、真実が潜んでいるところからおびき出し て、フィクションの次元に移し、フィクションの形を与えることで、その尻尾を掴も うとするわけです。しかし、これを成し遂げるためには、まず、我々自身の中の真実 がどこにあるのかをはっきりさせておかなければなりません。これは巧みな嘘を作り 上げる上で重要な条件です。
しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。できるだけ正直になろうと思いま す。私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、今日はたまたまその 一日だったということです。
というわけで、率直に言います。たいそうな数の人々からエルサレム賞を受け取るた めにここに来るべきではないと忠告されました。中には、私がここに来たら私の本の 不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。
理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。国連のレポートのよれば、 1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。その多くは非武装の市民 -老人や子供たちです。
賞についての話が出るたびに、私は自問しました。このような時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受賞することは適切なのだろうか?これが、紛争の一方の側に味方する 印象を造らないだろうか?圧倒的な武力を解き放つ選択をするという政策を支持する ことにならないだろうか?もちろん、このような印象与えたいとは思いません。私は いかなる戦争も反対ですし、いかなる国も支持しません。また、同じように自分の著 海外 作がボイコットされるのも本意ではありません。
しかし、じっくり考えた末に、結局は来ることにしたのです。こう決心した理由の一 つは、あまりにも多くの人に来るなといわれたことでした。恐らく、多くの作家がそ うだと思いますが、私は他人に言われたことと反対のことをする傾向があるのです。 もし人々に「行くな」とか「するな」と言われたら-特に、脅されたら-私は行きた くなるししたくなる。これは、私の、言うなれば、作家としての習性なのです。作家 とは特異な人種です。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を完全に信用 することができません。
だから私はここにいるのです。留まることよりもここに来ることを選びました。見な いことよりも自身の目で見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すこ とを選びました。
それは、私がここに政治的なメッセージを運んできたということではありません。物 事の善悪を判断することは作家の最も重要な仕事であることはもちろんです。
しかし、そうした判断を他人にどのような形で伝達するかという決定は個々の作家に ゆだねられています。私自身はそれを物語の形にーそれも、シュールな物語に変換す るのを好みます。だから本日、皆さんの前に立っても政治的なメッセージを直接伝え ようとは思わないのです。
が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。それは、私がフィ クションを書くときに常に心がけていることです。(座右の銘として)紙に書いて壁 に貼っておくという程度ではなく、私の魂の壁に刻み付けてあるものなのです。それ は、こういうことです。
もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側 に立つ。 そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正 しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれ ないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかな る理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょう か。
このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。爆撃機や戦車やロ ケット、白リン弾が高くて硬い壁です。それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装 の市民が卵です。これがこのメタファーの一つの意味です。
(この譬喩は、三島由紀夫の世界からみれば、修辞学的にはメタファ(隠喩)では全然なく、1:1の関係で言葉を用ゐてゐるのである以上、明らかに換喩であるから。即ち、村上春樹は隠喩と換喩を取り違へてゐるのです。)
しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。こう考えてみ てください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂 を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なの です。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっていま す。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に 生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです―冷たく、効率的 に、システマティックに。
私が小説を書く理由は一つしかありません。それは、個々の魂の尊厳を浮き彫りに し、光を当てるためなのです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムが我々 の魂をそのくもの糸の中に絡めとり、貶めるのを防ぐために、システムに常に目を光 らせているように。私は、物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを 示し続けることが作家の義務であることを信じて疑いません-生と死の物語、愛の物 語、人々が涙し、恐怖に震え、腹を抱えて笑う物語を通じて。これこそが、我々が 日々、大真面目にフィクションをでっち上げている理由なのです。
私の父は昨年90歳で亡くなりました。彼は引退した教師で、パートのお坊さんでし た。大学院生の頃、父は陸軍に徴兵され中国の戦場に赴任しました。私は戦後に生ま れた子供でしたが、父が毎朝朝食の前に、家の仏壇に向かって長い真摯な祈りを捧げ る姿を見てきました。一度、父にその理由を尋ねたことがありました。父は、戦争で 亡くなった人のために祈っているのだ、と答えました。
亡くなった全ての人のために祈るのだ、と父は言いました。敵も味方も、全て。仏壇 に向かって膝まづく父の背中を見ながら、父の周囲に死の影が漂っているような気が したものです。
父は亡くなり、父と共に父の記憶も逝ってしまいました。父が記憶していたことを知 るすべはありません。しかし、父の周囲に潜んでいた死の存在感は私の記憶の中に残 っています。これは、父から受け継いだ数少ないものの一つで、最も重要なものの一 つです。
私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。我々は国や人種や宗教を超えて、同 じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だと いうことです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、 あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分 と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、 魂を一つにしたときに得られる温もりだけです。
考えてみてください。我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります。シ ステムは魂を持っていません。システムに我々を搾取させてはいけません。システム に生命を任せてはいけません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシ ステムを作ったのです。
以上です。エルサレム賞の受賞に感謝します。私の本が世界の色々な場所で読んでい ただけることに感謝します。今日、ここで皆さんにお話できる機会をいただき嬉しく 思います。 」
(3)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる卵
1️⃣卵
2️⃣『不思議の国のアリス』のこと
Humbpy & Dumptyが登場する、この双子の兄弟は、卵型をしてゐる。
また、Humpty & Dumptyといふことから、
(4)『1973年のピンボール』の中に出てくる女の子の双子:Humpty Dumptyの卵
特に卵型であるといふ叙述はないが、双子といふのは一対であつて互ひ似てゐて、主人公が識別ができない女の子たちといふことで出てくる。これは、ハードボイルド・エッグのありかたとは対照的である。
前者の双子の女性たちは離れてゐて同じものであつて且つ識別できないのに対して、後者の卵は、固茹でであつて、一つの卵の殻の中に二つの部分があつて、それも片方は白い色、片方は黄色い色といふ風に、識別可能でありながら固まつて一つになつてゐるといふ点に於いて。
村上春樹が何故『不思議の国のアリス』が好きかといへば、それは主人公が地下世界に落ちて行つて、様々な経験をするといふ此の小説の構造が、同じ構造を持ちたいと願つてゐて未だ果たしてゐない、村上春樹の願つてゐる構造を実現してゐるからです。
さうして、そこに卵が、それも双子といふ形で、登場するからです。
双子とは、お互ひに対称性を備へた人間です。この対称性は、恐らくは全てのといつて良いのだと思ひますが、村上春樹の登場人物の命名の根底にある論理と感覚(センス)です。例へば、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の沙羅といふ2歳年上の女性に典型的なやうに。
双子とは、お互ひに対称性を備へた人間です。この対称性は、恐らくは全てのといつて良いのだと思ひますが、村上春樹の登場人物の命名の根底にある論理と感覚(センス)です。例へば、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の沙羅といふ2歳年上の女性に典型的なやうに。
この女性名前の由来は、平家物語の冒頭の沙羅双樹の花の色の沙羅なのです。
ここに、『多崎つくるの物語』の登場人物の渾名であるシロとアカが隠れてゐます。沙羅双樹の花の色は二つの樹木にそれぞれ赤と白の花が咲いてゐるのださうです。そして、この二つの花の色の間にお釈迦様の死があり、そこに横たはる。これら対称的な一対の樹木の一つは当然のことながら春樹といふ樹木であり、他方の対称の半分はシロの花を咲かせる樹木、即ち繰り返し村上春樹の作品中に白い死者として登場する喪われた女性、処女作『風の歌を聴け』に暗号化されたMIC、即ち旧約聖書の中の預言者Micah、即ちミカといふ預言者の名前に隠した愛する女性でありませう。
やっと子供の頃に親しんだ筈の平家物語が換喩の形式を借りて出てきました。
村上春樹と平家物語については稿を改めます。
(終わり)
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